現代美術家・柳幸典 × 旅館「すみや亀峰菴」 永遠の旅人を迎える宿り
「現代アートの中に泊まる」体験
体験は、ロビー&ギャラリー「百代(はくたい)」から始まる。「百代」とは、李白の詩「夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過各なり」の冒頭である。
時間や年月は永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、天地は万物を宿す旅館のよう、という意味を持つ。「逆旅(げきりょ)」は、万物がひとときの間に宿る場所を指す。
永遠の旅人を迎える宿りとしての旅館、という序のアイデアが、世界的な現代美術家・柳幸典(やなぎ ゆきのり)氏と京都・亀岡の歴史ある旅館「すみや亀峰菴」を結びつけた。
当初はエントランスに柳氏の作品展示のみの予定であったが、最終的には「旅館」の空間そのものを作品構想して作り上げて、「現代アートの中に泊まれる」というアートプロジェクトのコラボレーションが実現した。
リノベーションは二期に渡った。2021年4月26日にロビー&ギャラリー「百代」が完成し、今年2022年4月28日にアートルーム「呼風(こふう)」が誕生した。
現代アートの中に宿泊する140平米の客室は、過去に思いを馳せて未来に繋ぎ、「天」と「地」の世界を体感するような新しい宿の在り方で魅了する。
ロビー&ギャラリー「百代」から続く鉄板による重厚な扉を開くと、鉄のトンネルが旅人を迎える。柳氏の構想によって作られた「イカロスに通ずるアイアンの隧道(ずいどう)」が、5階にあるアートルーム「呼風」にいざなってくれる。
「百代」の奥から「イカロスに通ずるアイアンの隧道(ずいどう)」に導かれる
アートルーム「呼風」
「呼風」は、滞在しながらアート作品を体感できる、露天風呂付きスイートルームである。ベッドルームとダイニングルーム、そして2つの独創的な露天風呂を備える。
アートルーム「呼風」とロビー&ギャラリー「百代」は、どちらも設計を柳氏と彼の建築チーム「YANAGI+ART BASE」(協力:広島大学八木研究室) が担っている。
「呼風」に到着したら、自身が何を感じるのか、最初の印象を大事にしたい。履き物を脱いで、客室の廊下で一度、立ち止まってみる。
そこは、「イカロスの回廊」と名付けたアートである。廊下は、迷い込んだ迷宮の回廊のように、果てしなく長く錯覚させる仕掛けがある。三島由紀夫によって書かれた「イカロス」の詩から、センテンスが提示される。そして、泊まる旅人は思考する。
「天」と「地」をつなぐイカロスの回廊にあらわれる、詩の引用「私はそもそも天に属するのか?」「そもそも私は地に属するのか?」
イカロスとは、ギリシャ神話に出てくる若者である。迷宮に閉じ込められていたが、羽を作って脱出して、天に飛び立つ。しかし、イカロスは父親の忠告を忘れて太陽に近づきすぎて、羽を焼かれて墜落する。テクノロジーの批判、傲慢さを戒める教訓でもよく例えられる話である。
神話は、「イカロスの堕落」のレリーフやブリューゲルの絵画など、作品の多くのインスピレーションにもなっている。
柳氏は、かつて瀬戸内海にある岡山県の小さな島「犬島」で、銅の精錬所があった廃墟に出会う。そこからイカロスの神話をモチーフに「犬島 アートプロジェクト」を着想し、2008年に「犬島精錬所美術館」を完成させた。
廃墟には、まるで神話のような、地下の迷宮があって塔があった。明治の近代産業遺構は、西洋に近づこうとした日本を、イカロスの姿かのようにイメージさせた。そこに『仮面の告白』を執筆した三島由紀夫の古い書斎をつり下げ、アート作品にした。
アートルーム「呼風」でも、「犬島精錬所美術館」と同じく、イカロスに着想を得た世界観を体感できる。
禅語における「呼風」には、風を呼ぶ力があるということから、不可思議な素晴らしい能力を持つ者についていう場合がある。アートルーム「呼風」のプロジェクトには、まさしくそのような匠たちが集まった。
陶芸家・石井直人氏、帯匠十代目・山口源兵衛氏、左官職人・久住章氏、和紙職人・ハタノ ワタル氏ら、京都・丹波を拠点に伝統の技を持つ日本屈指の作家・職人たちが参加し、柳氏と協働している。
「天」の回廊。刻々と移りゆく今の空を作品として見せる
「イカロスの回廊」の壁は、和紙職人・ハタノワタル氏が手がけている。回廊は「天の間」と「地の間」をつないで、客人は天と地の世界を行き来する。
「天の間」の寝室は、文化人類学者のルース・ベネディクトが「日本文化の型」について考察した著作『菊と刀』の「菊」に想起を得て、和紙による菊の浮き出し模様と、金箔の花びらが散りばめられた壁になっている。
「天の間」は空(くう)を表し、浴槽の虹が視覚的な「天」を表している。温かい湯船に浸かると、映しだされた虹がランダムに動いて揺らめく。
対する「地の間」は、陶芸家・石井直人氏による登り窯の1200度を超える高温で焼かれ変形した、破れ壺を置いている。壺の裂け目から揺らめく焔とともに「天」と対峙する。
地の風呂は、左官職人の久住章(くずみ あきら)氏による、まるで地に抱かれるような土の浴槽と、裏山の木々の緑と鏡合わせにした石井直人氏の緑の織部釉の陶板を壁にしつらえている。「地の間」は、大地の生命感、死と再生を表現した空間になっている。
菊と刀のアート
「地の間」には、柳氏による日本刀に日本国憲法第9条を彫った作品が飾られている。刀というのは武器でありながら、相反して、交戦権を放棄するための9条が彫られている現代アートだ。
条文の内容が、日本人にとって大きな基準になり、人類にとっても画期的であると感じた柳氏は、これまでにも同じ題材で刀の作品を創作している。
アートルーム「呼風」にある、日本の文化と国家をモチーフにした、「菊」と「刀」の現代アート作品。現代の日本の再生の物語をイカロスになぞらえて、客人はひととき足を止めて、思いをめぐらす。
「天」と「地」の間にある和室の客間は「菊花の間」として、帯匠・山口源兵衛氏による若冲の「菊」をテーマにした帯が、今後アートボードに飾られる予定とのことで愉しみだ。
今回のプロジェクトを手掛けた柳幸典氏はこれまで数多くの国際展に参加し、2000年のホイットニー・バイアニュアルではニューヨーク在住の作家として外国人で初めて選ばれるなど、現在も国際的に高い評価を受けている現代美術作家だ。
瀬戸内海の離島にある犬島の「犬島精錬所美術館」、広島県尾道の百島(ももしま)に廃校を改修したアートセンター「ART BASE百島」といった作品でも知られている。
柳氏の作品は、物事の本質や問題の根源をユニークな方法で、一方的な視点に見えないような芸術表現を用い、見る側に想像させて考える意志を問いかけてくるかのようだ。旅館のアートを通して、ここを訪れる鑑賞者が互いの思いや考えを共有する体験は、きっとこれからの未来につながっていく。
オーストリアワインを愉しむ旅館
アートルーム「呼風」に滞在すると、柳氏の作品が飾られた「地の間」でアートと共に食事を愉しめる。料理人がこの部屋に宿泊した客人だけに、特別料理をふるまうのも、この部屋の魅力のひとつだ。
「地の間」の壁は、地の風呂、ロビー&ギャラリー「百代」の壁も手がけた、左官職人・久住章氏によるもの。作品と一体になった窓から見える景色が絵のように美しく、この客室がまだ迎えたことのない秋の紅葉の景色も期待できる。
夕食は、四季折々の食材を活かした京懐石。旅館のある亀岡は、嵐山に近い京・丹波の盆地で、米や京野菜の名産地として知られている。
「呼風」の個室では、旅館のダイニング「旬膳瑞禾」のスタンダードコースにはない特別な料理を出し、旅館の特色であるオーストリアワイン、料理人のパフォーマンスが愉しめる。
ここでは、料理長・細井久仁彦による、夏のメニューの一部を紹介する。
季節を愉しみ、目にも鮮やかな八寸は、氷の上に盛り付けられている。
笹の葉に、鱧と亀岡牛、さらに雲丹を乗せて山椒のタレでいただく豪華な一皿は、アートルーム「呼風」の特別料理だ。
旅館の料理にあわせるワインは、すべてオーストリアワイン。「すみや亀峰菴」では、20年以上前からオーストリアワインを提供し、現地まで赴いてワイナリーを視察し、造り手との繋がりも深い。オーストリアワインは、和食にも非常に合う。
また、京都の亀岡市とオーストリアのクニッテルフェルト市は、姉妹都市でもある。両方ともに盆地であり、豊かな自然に囲まれた魅力を持つ。
オーストリアワイン大使としても活躍する、「すみや亀峰菴」ソムリエの田中さんに話を伺った。
オーストリアワインの品種は、一つの国だけでバラエティに富み、豊かです。『すみや亀峰菴』では、常時50種類以上のオーストリアワインを揃えています。ワインリスト上には20種類程を載せていますが、実際はそれ以上にあります。
オーストリアワインは、白の産地が圧倒的な割合を占めます。今回用意したのは、ボトルの緑色も涼やかな、グリューナー・ヴェルトリーナーの白です。オーストリアワインの代表的な白ブドウで、辛口から甘口、軽やかなカジュアルから重めのリッチなスタイルまで、その醸造方法によってさまざまな白ワインが造られています。
この造り手は、世界遺産に登録されている風光明媚なドナウ川流域のヴァッハウ渓谷の地にあり、古くからの歴史を持ち、ワインの評価も高い「クノール」というワイナリーです。
急な段々畑のような場所にある、オーストリアの産地では一番涼しいとされる冷涼な地域が生んだキリッとした味わいを持ち、ヴァッハウ特有のワインの階級でフェダーシュピールとされる、辛口の白ワインです。
フルーティで、ところどころスパイシーな胡椒のような香りと、リッチなミネラル感を持ち、和食にも合います。
焼き物。音を立てて割る塩竈を、パフォーマンスとして特別に個室のオープンカウンターで愉しめる
ダイニング「旬膳瑞禾」の夕食の献立でも、亀岡牛の寿司、夏は旬の若鮎の塩焼や冷やし加茂茄子といった、美食の数々が提供される。
「おくどさん」で炊き上げるご飯
旅館のダイニング「旬膳瑞禾」は、京都のおくどさんのある台所を再現している。「おくどさん」は、京ことばで、かまどを表す。炊き上げられたご飯はふっくらと白くつやつやして、とても美味しい。
お米は地元産の亀岡・本梅産のコシヒカリを使用し、朝食はおくどさんで炊いたご飯と、土鍋で温めたお味噌汁が用意される。京のおばんざい、ぶどう酢、松茸おこわ、おぼろ豆腐といった充実の内容は、本日も良き1日になるように、と旅館からの願いが込められた美味しい和定食だ。自家製朴葉(ほうば)みそは、田舎味噌に生姜や鶏そぼろ、椎茸、人参などをあわせていて、焼いた熱々のみそをご飯にのせて食べる。
ロビー&ギャラリー「百代」
「すみや亀峰菴」は、1955年にこの地で「湯の花温泉」の看板を掲げて創業した。ジョン・レノンとオノ・ヨーコ、松田優作なども訪れたことのある、歴史を持つ老舗温泉旅館だ。
茅葺きの門を入ると、昨年リニューアルしたロビー兼アートギャラリーの「百代(はくたい)」が旅人を迎える。
エントランスには、葛飾北斎『冨嶽三十六景』の一図「神奈川沖浪裏」を引用した柳氏の作品、《Study for Japanese Art -Hokusai-》が常設されている。
アートルーム「呼風」の壁も手がけた左官職人・久住章による蒼が滲む黒漆喰の壁が、海を思わせる。
茶釜が置かれたカウンターの背景は、千利休が唯一残した茶室である国宝「待庵」を久住章氏がイメージして再現した土壁だ。そこに、アンディ・ウォーホルのポップ・アート「花」を引用した、柳氏による《Study for American Art -Flower-》の2作品が飾られている。
《Study for Japanese Art -Hokusai-》《Study for American Art -Flower-》は「アント・ファーム」シリーズとして制作された。「アント・ファーム」シリーズとは、砂絵を蟻に掘り崩させる作品で、よく見ると海の絵も花の絵も、砂模様が欠けていくのである。一見、綺麗な絵に見えながら、実は内部では侵食が起きている。
ロビー&ギャラリー「百代」には、柳氏が選曲した、フランスの作曲家ドビュッシーの交響詩《海》が常に流れている。作曲家がジャポニズムの影響を受けて、葛飾北斎の『冨嶽三十六景』「神奈川沖浪裏」からアイデアを得ているとも言われる曲である。海の移りゆく情景を思わせる音楽は、色彩的でありながら、ときに不安定な海を思わせる。
柳氏のアイデアによる5つの黒いキューブは、玄関や窓、客室へと続く場所に配され、それぞれが別の空間へと導く。四角い鉄のキューブが、「外と内」「室内と庭」「ロビーと宿泊棟」の橋渡しをしているのである。
ギャラリーの中央には、日本初公開となった柳氏のパシフィック・シリーズの新作を、2021年9月18日より展示している。パシフィック・シリーズは、海に沈んだ戦艦長門をモチーフにした作品である。
海の底に沈んだ近代の鉄の遺構は、巨大な鋳鉄の立体アート作品となった。
奥にある写真は、柳氏が自らの肉体を使って潜水して、海に沈んでいる戦艦の姿を実際に撮影した作品だ。
作品は、昔かつて存在した戦艦のプラモデルを巨大に拡大して設計された。設計図も窓ガラスに展示している。
ここにあるのは記念碑ではない。鑑賞者が自ら、過去を想像する作品である。現代人が、アートを通して、自分が経験したことのない他者の過去と繋がることができる可能性を秘めている。
旅館とは、総合芸術
「旅館という古(いにしえ)、伝統を新しく楽しんでほしい」という思いから、左官、木工、漆芸など、日本の伝統の匠の技を以前から部屋に取り入れていた「すみや亀峰菴」。
リニューアルプロジェクトで「旅館は食、温泉、工芸、アート、建築などが全体で調和した総合芸術」と実感したという、現代美術家の柳幸典氏。
自然が美しいオーストリアにも似たこの京都・亀岡の地で、オーストリアワインを飲みながら美食に舌鼓を打ち、川のせせらぎや鳥のさえずりを聞き、夜は星や旅館の灯りを眺め、温泉に入り、アートルームでひととき休んで夢想する。
現代美術家と旅館がコラボレーションをした、「百代の過各をお迎えする逆旅」としての願い。日頃忘れていた時間を、立ち止まって体験できる宿りが、ここ「すみや亀峰菴」にある。
〈参考資料〉
特設サイト「百代(はくたい) 」Concept「Gallery 百代 永遠の旅人に」柳 幸典
記録冊子『連続対話+企画展示「百代の過客」』(編・発行:NPO法人ART BASE百島)
<Information>
特設サイト ロビー兼ギャラリー「百代(はくたい) 」
https://hakutai.sumiya.ne.jp/
特設サイト アートルーム「呼風」
https://hakutai.sumiya.ne.jp/artroom-kohoo/
■京都亀岡 湯の花温泉 すみや亀峰菴
京都府亀岡市稗田野町柿花宮ノ奥25番地
TEL:0771-22-7722
https://www.sumiya.ne.jp/
photo by 田頭真理子(Mariko Tagashira) https://marikotagashira.com/
広島県尾道市出身。写真家 立木義浩氏と出会い写真家を志す。東京を拠点に広告撮影をする傍ら、祭りや文化などに関わる人間模様の撮影を続ける。
text by 鈴木陽子(Yoko Suzuki)
CS放送舞台専門局、YSL BEAUTY、カルチャー系雑誌ラグジュアリーメディアのマネージングエディターを経て、エンタテインメント・ザファースト代表・STARRing MAGAZINE編集長。25ヶ国70都市以上を取材、アーティスト100人以上にインタビュー。